2008年12月7日 星期日

福井靜夫

  福井静夫(日文維基)

福井は膨大な旧海軍関連の資料を蒐集している事で有名であった。1958年の段階で既に1万枚の写真を保有していると書いており、2005年に相次いで出版された『呉市海事歴史科学館図録 福井静夫コレクション傑作選』には2万枚と書かれている。しかし、福井(および『世界の艦船』常連執筆者であった堀元美)は具体的な文書や写真を提示せず、回顧録的な記事の発表を続けたため、一部読者や研究家の間で旧海軍の技術関係者に対する不満が高まり、1970年代半ばから数年間、主に雑誌『世界の艦船』の読者投稿欄(読者交歓室)を舞台に論争が発生した。

主な批判者は田村俊夫、当時から艦船図面の蒐集と配布を行なっていた遠藤昭などである。遠藤と福井は取材を通じて複数回顔を合わせており互いに面識があり、非公開への批判に留まらず、旧海軍の造船士官の殆どが師事していた平賀譲への過剰な賛美を批判し、平賀と対立していた藤本喜久雄を再評価する視点からも造船関係者を批判した。対立は田村が大淀の右舷正横写真をアメリカの研究家ロナルド・ヒーフナーからナショナル・アーカイブスに保管されてる旨を教示され、これを『世界の艦船』1979年8月号で公開した頃より表面化した。

 戰後,日本海事.戰史雜誌的日本海軍艦船史執筆者主要分為兩派,一派是以福井靜夫、堀元美為首的元海軍造船官,另一派則是戰後新進的艦船研究家,造船官由於本身的專業知識與個人體驗,加上個人搜集海軍檔案的優勢,與艦船研究家間就觀點的異同與史料公開的要求上,自1960年代後期起雙方就以海人社<世界の艦船>卷末‘讀者交歡室’為中心互有批判,以下舉一例作為參考:

海人社<世界の艦船>1968年8月號 No.132

海人社<世界の艦船>1968年9月號 No.133

 簡單的說,石橋孝夫在<世界の艦船>1968年4月號空母加賀的照片解說中,提到加賀近代化改裝時,主要參考美國海軍的薩拉多加型空母為根據,因為兩者的設計相較下,薩拉多加型的設計實有其先進性;之後堀元美在同誌1968年5月號的讀者交歡室批評,這是不瞭解帝國海軍造艦專業技術的年輕研究家‘率性妄言’(這兩期以前在日本看過,可惜現在不在手邊)。接下來就如圖所見,1968年9月號的讀者交歡室中,除了石橋氏的回覆外,其他的艦船研究家都一致支持石橋氏的意見,並批判堀氏的盲點,下不了台的堀氏,只好在下一期的讀者交歡室宣告「失蹤」………。

 雖然媒體不同,討論進行的速度也無從相比,(基於尊重前輩的原則)用詞也委婉得多,但是老鳥壓菜鳥的傲慢(或者應該說軍人對民間人的蔑視),與論戰的氣氛,和現代的網上論壇風氣幾無差別。無怪乎30年後石橋氏的文中提起往事,猶有餘恨也。

 ※ 關於加賀近代化大改裝始末的史料,請參考水交會編<回想の日本海軍>(原書房\1985年) ISBN 4-562-01672-8 岡田兵一郎‘加賀.赤城の飛行甲板大改造の経緯’(84~90頁),文中提到,加賀改裝前曾經搜集各國海軍空母的資料比較研究,最後認定還是美國海軍的薩拉多加型的設計有一日之長,而決定以此為準。

 以上所言,只是多次大小論戰的其中之一,雙方恩怨越結越深的結果,後來堀元美於1980年代初期退出<世界の艦船>執筆陣,另創辦<Sea Power>月刊,直到1987年逝世後才休刊。而福井靜夫於1994年辭世後,反福井(與福井等人師事的平賀讓)派的石橋孝夫、田村俊夫、遠藤昭等的批判也日益鮮明(遠藤昭與田村俊夫的研究成果與意見,近年來主要於學習研究社<歴史群像太平洋戦史シリーズ>MOOK中發表),於今未止,所以接觸日本海軍艦船史的文獻時,不可不慎重留意這點。

 日文維基的福井靜夫條目,原本極簡,2007年10月經人大幅加筆後,才有現在的規模。執筆者真實身份當然無可考求,但至少也是相當資深的軍艦迷,才能如此詳述論爭恩怨。其文頗為福井氏辯護,雖然言之成理,但對外國人來說,如沒有親見當時的文獻,終究難以體會當時論爭的意義,故粗略解說於此,如有誤解前輩之處,文責自由小生承擔。

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